その昔、信長の野望 武将風雲録というゲームがあったのですが、1560年になると、「桶狭間だぎゃー」のメッセージのみで今川義元の死と清洲同盟の成立がなされるという、シンプルがゆえに子供心に受けた衝撃から、戦国の合戦といえば「桶狭間の合戦」だったのですが、ついに念願の桶狭間古戦場に行ってきました。

ただ、この桶狭間古戦場ですが、行くにあたって色々と調べていくと、なんと2箇所あるんです。豊明市にある桶狭間古戦場伝説地と名古屋市にある桶狭間古戦場公園。2つある理由が、お互いの市の仲が悪いからという、なんとも現代ちっくな理由だったりします。(ボランティアガイドさんに聞いたら教えてくれました。)

というわけで、まずは駅から近かった桶狭間古戦場伝説地から。こちらは、整備されたのが昭和初期なので、国指定史跡になっています。

ここが史跡として整備されたのは、今川義元や一緒に討死した人の塚があったからなのですが、庭園内には、その塚が7つあります。こちらは、今川義元の塚。

また、道を挟んだ向かいには、江戸時代末期に建てられた義元公の供養塔がありました。

紹介看板には、わざわざ赤字で、名古屋市の調査報告書でも江戸時代の村民がココを義元のものと認めていた、と書いてあるあたり、現代の自治体同士のドロドロ関係の香しさを感じることができます。

また、古戦場の向かいの丘の上にある高徳院というお寺があるのですが、その階段を登ったところに、豊明市の主張する今川義元の本陣跡がありました。

信長が山の上から駆け降りて奇襲をかけるシーンが印象にありますが、そこはさすがの義元もきちんと小高い丘の上に本陣を構えていたようです。

ちなみに、こちらの桶狭間古戦場伝説地では、豊明市説を裏付ける古文書が令和元年に見つかったそうで、その説明をボランティアの方から教えていただけて、とても興味深かったです。冊子も販売していたので、興味ある方は買ってみましょう。

さて、今度は桶狭間古戦場公園に行きます。桶狭間古戦場伝説地からは、おけはざま山(現在は住宅街)を越えた向こう側に位置しています。

公園の手前の高台には、名古屋市が主張する今川義元本陣跡がありました。

こちらの本陣ですが、アパートの真ん前にあり、後付け感が半端ありません。

ココから坂を降れば、桶狭間古戦場公園に辿り着けます。こちらは公園というだけあって、普通に地元の子供が遊んでいて、観光地感がありません。

ただ、そこはお金のある名古屋市。公園内には、信長公と義元公の銅像が鎮座しています。

名古屋市がこの場所を古戦場としているのは、信長公記に義元の戦死場所が田楽坪と記載があったからなのですが、それだけではなく、この地の塚に埋まっていた駿公墓碣(駿河のえらい人の墓)と刻まれた墓碑が発見されたからだそうです。こちらの右側が、発見された墓碑です。

また、公園はジオラマとして整備されており、分かりづらいですが、公園内の小道は、義元の進軍ルートと信長の進軍ルートになっていたりします。ちなみに手前の湧水のところで、義元の首級を洗ったと伝わっているんだそうです。

桶狭間の合戦については正確な記録がなく、約3万の兵がいた合戦なので、その範囲も広範囲に及んでいたことが推察されます。それがゆえに、このような2つの古戦場跡の存在に繋がっているわけなんですが、それぞれに古戦場に由来があり、戦国浪漫をくすぐることに違いはありません。是非とも両市は手を取り合って、両方の古戦場や説の違いを学ぶような観光ルートを作ってほしいと思います。